逮捕された変人たちとぼくが区別された、最初で最後の一線

仕事の忙しい合間にも、色々と思うことはある。
昨今はそれが、今にも何らかの形で抵抗する意志や牙を抜こうとアカら顔で必死になっている、近隣の地獄からの死者の対処に引きずられているところも、無くはない。
あいつ等のことを考え、どう対処すれば良いんだろう、と思えば思うほど、『深淵を覗く物はまた、深淵からも覗かれるのだ』という言葉を思い出さずには居られない――同じ手段でやってしまってはいけないからだ。


その理由かい?
同じ手段を執った人がどうなったかは、幾例ものニュースがあるだろう?
金や女であちら側に取り込まれたり、あちら側の手先になっているマスコミに針小棒大ならぬ”針小極大”な扱いを以て週を跨いで叩かれ続けたり、さ。


とはいえ、ぼくはその件を取り上げるのは別の機会としたい。
というのも、報道繋がりではあるがほぼ別件で、一つの思い当たる点を思いついたからだ。


過去に報じられた新聞やニュースを省みると、現在オタ(=オタク)と分類されている人たちの扱いが、一時期はもはや汚物扱いであることを知った。
紙面の大体1/4位かを使って『気持ち悪い』の文字をでかでかと配置し、人権無視どころか人権の「じ」すら存在してはならない、と言わんばかりの叩きようであった。
…今思えば、新聞を読まない側で良かった、と思ったよ。
読んでいたら、そんな記事と衝突事故でもしていたら、今の『まだ自分でキチンと考える』自分は居なかっただろうし。


しかし、インターネットの普及を皮切りに、全ての報道なるものは個人が行えるようになり、androidiPhoneと言ったスマホの普及で、個人が報道を行うことに拍車が掛かった。
スマホの普及前後で、インターネットのSNSやSNSと見なされるサイト、及びまとめサイトに個人ブログなどへの事件/事故を扱った記事の投稿量は桁違いとなったのだ。
言うなれば、スマホさえ使える状態で手元にあれば、身の回りで起こった事故や事件、天災を即座にインターネットに掲載し、第一報をマスコミごときより先に行えるのである。


ここへ来てようやく、コンテンツ制作会社がインターネットへと活路を求めて各自でサイトを作り出し、TVだけで喰っていけると思っていたTV局で踏ん反り返っていた(ry)が慌て始めて、今がある。
見よ、Twitter上で写真や動画と共に第一報を報じた人に『○○新聞○○部××です』とメッセージを送り、あわよくばその画像や動画を無料で使わせて貰おうと必死になっている奴らの姿を。
ぼくが出演していた*1頃は、収録1回ごとに一応ながら謝礼は出ていたのだ。金額は明示しないが、出ていたことだけは純然な事実として残しておく。


つまり、マスコミはどこまで行っても、上から目線を崩すつもりはないらしい。
昨今のマスコミが掲げる報道を分析するに、どう見ても日本がアカら顔の猿に食い潰されるべき、その理由は過去の戦争にある、などといった嘘と方便と誤魔化し、そしてその心を寄せるアカら顔の面々へのごますりしか入っていない番組を『報道』と定義しているようで、もう笑える材料にもならない。
そんなマスコミがぼくの知る限りで一番輝いていたのが、昔から『他者を遠慮も容赦も恥もなく全力で叩けるとき』だけだったのだから、どれだけその腐れた本質を長々と隠し持っていたのかは推して知れよう。


そんなマスコミが昔から叩いていた相手に、今でいうオタク達がハマっている、今で言うサブカル…『サブカルチャー』がある。
日本に於いては、『主流とされる物から外れてはいるけれど、それなりに人気のある作品』を示す、その実多数の分野に跨がり得る言葉だ。
はてなキーワードにも代表的ジャンルの記述はないが、代表的なジャンルの紹介だけならニコ百にある同名記事を見れば解りよいか。


中でもマスコミが特に叩いていたのは、サブカルの内のマンガ、アニメ、そしてPC文化だ。
そう言った趣味を持つことが犯罪であるかのように表現し、その趣味を持つ、と言うだけで犯罪を起こしかねないと記事にしていた時期もあった。
冒頭少し下に掲げた記事はその頃のもので、いわゆる同人漫画やフィギュアを持つ人達を『少女妄想の現れ』だとか『病巣の源』として敵視していたのである。
酷い話だが、『宮崎勤死刑囚が性的、または猟奇的なアニメを多数持っていた』と報道され、しかもそれ以上に普通の方々が録画しているスポ根アニメがあったり、普通の方々向けに出版されていた雑誌が多数あった中に、たった一冊だけあったエロ本を表に見える様に配置し直して撮影したという話があるうえに、この手法は書かれたあとすぐに消されており、特にマスコミやその収録に携わる関係者による『自分たちより質の悪い人が居る』と言いたげな偏向志向は、昔からずっとあったと言っていいレベルで今もなお、新聞や放送内容のそこかしこに残っている。


今こそ証そう。
ぼくは、ほぼそんな人達になるかも知れない生き方をしてきていた側である、と。


幼い頃からゲーム機でゲームをするようにパソコンでゲームもし、
学校でノートを取るように自宅でパソコンで文章を作り、
インターネットより前に広まっていた「草の根通信」にて、学校では学ばないことをいろいろと教わり(”テレホ族”と言えば、その世代の人は解るだろう)、
全年齢対象の美少女ゲームに触れて感動してはそれのアンソロジーコミックを『ダブらぬように』百冊以上集め、時にそれ関係の小さなフィギュアを集めもした。
当然、仕事を除けばその間はほぼ個室に籠りっきりだ。


だが、どうだ?


ぼくはそう言った趣味を持って以降、逮捕されたこともなければ、逮捕されるようなこともしていない。
逮捕されるきっかけになることを一切していないし、それに類することをしようなんて殆ど考えたこともなかった。
また、考えたことはありはしたが、先祖代々の守護があってか考えても全て未遂にすら成らずに――そもそもそんな事をする必要がなくなる形で――終わっている。


時に自分の生き方に悩み、時に自分の性格について悩み、それでも自分の中で『これが最善ではないか』と模索しつつ生きて居る。
若い頃は他者多方面に多大な迷惑を掛けもしたが、今はそのようなこともなく、迷惑も極力掛けぬようこちらで判断できることは判断し、掛ける迷惑を極力減らしては居る(とはいえ、全く迷惑を掛けていない、とは到底言えないが)。


昔は、今で言うADHDとされても可笑しくない幼少を生き、人と話をすることすらしようとしなかったくらいには自閉症らしい症状を一時期出してもいた(育ての親談)ぼくではあったが、その人間がこうして成長して、ここまで色々な事を考えつつ社会に貢献しているし、一時期ながらTVにも出させて貰えた。
なら、TVに対して感謝しつつも、せめてTVが本来の正常さを取り戻すよう願う、っていうのは、可笑しいか?


確かにTwitterにて昨今のマスコミに対する恨み辛みは記載しているが、それもTVの内容が見るに値する・値しない以前の、そもそも放送を許すべきですらない状態でしかないから、だから文句を上げているのだ。
もとの――ぼくが幼かった頃にあった、面白い内容満載の――TVに戻って欲しいからだ。
それを推進出来ない人員など、マスコミには百害あって一利なしでしかない。


そんな事を言っているぼくが、逮捕された変態達と、見ず知らずの間に付けることができた唯一の区別――それは、『親の教育の違いによるもの』だ。


昨今の教育の可笑しさは、日教組の言い分を見れば解るだろう。詳しくはぼくのTwitterのTLで『日教組』をページ検索して欲しい。
ただただ思うのは、戦争より生きて帰ってきた祖父と、戦争を生きて乗り越えた祖母の二人に育てられたからこそ、『教育勅語に立ち返る可能性』が出来ていたのだろう、ということだ。
教育勅語に書いてあることは、検索してみてみれば解るとおり、親兄弟・夫婦間で仲良く、友人達と助け合い、学んでそれで得られた知恵で人の役に立つように、みたいな『指針』が書かれてある、というだけのこと。
端から見て可笑しな、それこそ国際社会で訝られるような内容など、どこにもない。
それが疎んじられた世代が親になった結果…それこそが、恐らくはそう言った犯罪になるまでのめり込んでしまった犯罪者達と、ぼくとの違いではなかろうか。

*1:スーパーフリーク里井くん』で検索すれば解るが、ぼくはかつてTVに出ていた。その間のことは、出てきた映像を見て察して欲しい