発展方向で願うことと、考えの基点

神社の近くでキリスト狂が、危篤狂盲信者特別視説を掲げて騒いでいる。
無知の白人団体が、海生ほ乳類特別視説を叫んでいる。


『ああ、スピーカーがまたやかましくしてるな。お馬鹿だなあ』程度にしか思わない。


あちらあちらで支持を集めないと団体維持ができないのかもしれないが、それだったら朝鮮半島でやってくれと思う。
朝鮮半島民を完全に改宗し切って、かつその振る舞いを反日から切り離すことができれば、きっといい教徒にはなるだろう、と僕は考えているからだ。なに、『反日』であれだけの団結ができるんだ。それを別のことに生かせば彼らは生き残れるし、金も作れるだろう。


本題。なぜそいつ等の話をまったく取り合わないか。
『人間もあくまで食物連鎖の表側における頂点に置かれているだけで、完全に自然と切り離されていない』と僕は考えているからだ。


古来より人間は、多種族と比して劣る物理的な性能を、『知恵』を使って回避したり克服したりしてきた。そのやり方は各地方により様々で、その人々の集まりである集落が外圧などを乗り越えて存在し続けた結果、こうして多数の人々が暮らしている現在へつながっている。
後に集落は村へ、さらに集まって町となったが、やがて平地で町やそれ以上に集まった都市ができるようになると、政治的な動きや近隣に棲んでいた動物への対処などで外敵から守るためにいろいろな手段を執ってきた。


だが、どれだけ守りを固めようと、特に日本は『自然との接点は残していた』のだ。
季節の移り変わりが分かるよう、自然のものを常に接せる所に起用し、また町中においては盆栽を通じて季節を知り…日々そうすることで、暦を細かく季節に沿わせていたのだ。
これは、春分秋分夏至冬至といった二分二至をはじめとした二十四節気、歌に詠われる八十八夜とかいった季語、四月一日と書いて『わたぬき』と読む名字などにも残っている。


しかし欧米は、詳しい理由は分からないがどうもそうしなかったようである、とみえる。
イースターなどをやっておきながら季節のずれを細かく調整することもせず、結局西暦1582年10月に暦と季節のずれをなくすために10日も削って*1。無理矢理暦を季節に合わせたのである。
カレンダーっぽく日付を出力をするプログラムでも、大抵1582年10月に限ってはその月だけ特例となるため個別にルーチンが組まれていることがあったりするし、言語によっては言語仕様そのものが対応していたりするくらいだ。


さて、今の生活様式を一度振り返って頂きたい。特に純和風の家屋は、かなり少なくなっているのではないかと考えられる。
耐震性などの視点などから木造を忌避している可能性は否定できないし、その考えは実際に家を建てる分には尊重されるべきだが、純粋に様式だけで考えると、特に間取りなどでかなり西洋風の様式になっていることが分かるはずだ。
純和風家屋を間取りの表記で示すと、大抵は3Kだとか5Kといった、数字+Kのみになることが少なくない。これは、純和風の様式に従うと、台所以外の部屋1つにいろいろな用途を持たせることができるためで、それらを『特定用途を示すアルファベットに当てはめることができない』からだ、と考えている――リビングであり、ダイニングであり、また普通の個室でもあるのだから。


そして、様式が変われば、自然との接し方も――洋が変われば、変わるものである。
旧来の密閉しきられない家ではエアコンの効きが悪いから、と密閉し、
プライバシーを重視するために個室を増やして大広間をなくし、
そして大広間も使い分けのためか食事時限定の意味を持たせるためか、リビングやダイニングと名前を変えた。
最近では押し入れサイズのウォークインクローゼットまでできていることもあるようで、
ここまでくるともう和風とは言えない家になってしまっていることに気づいてほしい。


ここまで僕が和風の家にこだわる最大の理由――それがすきま風による自然空調だ。
寒いときには隙間を塞ぎたくもなるが夏の暑いときにすきま風は熱を奪ってくれる風を作るし、
寒ければ着込んだり毛布にくるまるなどで防げるが、暑いと服を脱いだり意図して水分をとったりしないと命にすぐ関わる。
また、すきま風は外から自然の風を家に吹き込んでくれるため、季節の香りや雨の香りを感じさせ、自然との接点を維持してくれる役目を持つと考えている。
そういった自然との繋がりが、もしかするとアレルギー発症を抑えていたのではないか――そのようなことを、とみに最近考えるのだ。
上げる証拠は全てインターネット情報だが、幼いうちに動物園や牧場のような動物たちの居るところである程度生活するとアレルギーを発症しにくくなる、という話や、人に寄生する回虫を駆除しだしてからアレルギーが見られるようになったのでは、という研究結果もあり、もしかすると回虫などがアレルギーの発症と関与しているのではないか、と見ても居る――回虫に寄生されている間は、花粉症のようなアレルギー反応よりも回虫への抗体反応が優先されるのではないか、という『抗体作成の優劣による花粉症低減』が可能ではないかという話だ。
具体的に言うと、『医学の西洋化、住環境の西洋化、それらが回虫を駆逐しすぎてしまい、結果として人の免疫は鋭敏化しすぎて花粉などに過剰反応するようになったのではないか』という考えである。
何でもかんでも西洋が原因、とするつもりはないが、それにしてはなにやら関連が見えるような発見時期のため、個人で疑っているだけではあるが、それらの関連が明示的に拒否されたこともない。


故に、不動産業者各社やゼネコン各社にお願い申し上げたい。
『今後はニュータウン以外でもいろいろな自然を身近に取り入れた住環境を、それもできるだけ自然本来の形に近づけながら提案してもらいたい』のだ。
これが、発展方向で願うこと。


喩えどれだけ人が他の動物と法的に区別されるほど優遇されたとて自然の摂理において人はあくまで他種より力の弱い存在でしかないし、生きるために食べるものは全て自然を由来とするものばかりで原料から完全な人工製造はできていない。
それが、人が自然から完全に切り離されていないことの証左だ、と僕は思っている――故に、人は自然とともにあらねばならないのだ、と僕は考えている。
自然から離れれば離れるほど、人は自然を求めて不調を来たすだろう――ともすれば命に障るくらいに。

*1:1582年10月4日の翌日が、1582年10月15日になった。但し曜日は連続している