あくまで自分は非殺傷主義

意外に思われるかも知れないが…僕自身は、あくまで非殺傷が主義だ。


仮に、大きな駅前などを歩いていてハトに懐かれても、基本追い払わない。
どうしても追い払う必要が出てしまっても、『当たらないための間隔を用意して』足を振り上げるなどし、当たらないようにしつつ相手が逃げるように仕向ける。
それくらいは最低でも考えるし、足を振り上げきる前にハトが羽を広げ、結果として羽を蹴ってしまう、というワケにも行かないため、敢えて一見して的外れな方向・距離にて足を振り上げる、と言うこともする。


直前の日記にて、『最悪、山用に限定しているアレを』という記述を出した。
これも、基本相手を殺傷しないようにするのが目的である――そちらから攻撃をしないならこちらも攻撃しない、という気持ちからだ。
誰も、ヤマアラシヤマアラシと知った上で、その針を殴ろうとはしないだろうから。


僕がそうする最大の理由は、至ってオカルトであるが…ここでは皆が分かりやすいよう表記する。
生きている人の意見は変えられるかも知れないが、死んでなおそこに縛られる人の意見は変えられないからだ。
下手に無理やり変えようものなら、怒りを買い呪われる可能性もあるだろうし。


…思い出したが、特に欧米ではこう言った『遺体が動き出す発想』が人々に広まっている。
普通に死没者を土葬していた件もあるが、これは基督教における最後の審判に備えてか遺体を土葬していたのではないかとの見方も出来る。
そこへ、『人間だったもののなれの果て』としてのゾンビ映画の刷り込みが入ったのだろう…かのBBCも注意を促している(日訳済Gigazine記事)くらいだ。


そんなにゾンビが怖いと煽るくらいなら、『遺体はきちんと火葬の末荼毘に付して貰いたい』、とついつい宗教の違いとかをすっ飛ばして思ってしまう。