「成程」は、成長過程の短縮形

神社や仏閣で、表または入り口から入って近くの所に、標語を掲げている所は少なくないと思う。
また、大阪・日本橋通りのほぼ南端、でんき会館ビル南側の道を西へ3本入った所に店を構えるそば屋『まる榮』でも、店の西側を使っていわゆる説教の文面を載せている。
だが、最近、見た範囲でのその説教の内容…特に一部の仏閣で掲示されてるものが、なんか説得力に欠けるのではないか。
そんなことを思ったことがある。


別に説教など、と思うかも知れないが、キリスト教の教会にも、天の言葉として”説教”は書いてあるのだ、割と身近ではないかと僕は考えることがあるが…普遍的に「身近な説教」というと、どうしても親や先生、先輩や上司から頂くいわゆる”お怒りの言葉”を連想してしまうことが多いのは、やはりそれだけ宗教的な説教以上に触れる機会が多く、かつ耳と心に痛いからだろうか。


で、日記の表題に「なるほど無くして成長無し」と書いたのには、この2つが自分なりに結びついたから。
それを簡単に言うなら、なるほどと思うからこそそれを取り入れるなどして、長所増強なり欠点補強なりが出来る…ということでもある。


昔、説教は、極めて簡単なことに例えられた。
生活の仕草の一つ――食前、手をあわせて「頂きます」の言葉をいうこと――だったり、
心がけ――自分がされて嫌だと思うことは、人もされたら嫌だろうと思え――だったり、
すぐ分かるからこそ、すぐになるほどと取り入れられる言葉で綴られていた。
また、簡単なことでなくても、理屈さえ分かれば本当に簡単なことで表されてあった。
”蹴られた石が、その勢いのまま他の誰かにぶつかることで蹴られた分の怒りを表す”のように、
幼心にでもちょっと考えれば「なるほど」と思うことが、そこに説教として書かれていた。
※本文中にある表現はこれを書くときに僕が考えたもので、実際に掲示された内容かどうかは確認を一切しておりません。


つまり、神社仏閣そして教会で掲げられている説教を見て、自身に当てはまる所があるとき。
その理屈について納得し、またどのように受け入れ、どう活かすかを考えることで、大小こそあれ成長することができる、というわけ。
故に、「なるほど(=納得)無くして成長無し」。


なるほど、と納得したら、貴方も神社仏閣などの説教を意識して読んだり、また得意なことで少し説教をしてみるといいかもしれない。
こうした活動が繋がって行けば、一人では出来ないだろうことも十分起こせるようになるだろうから。